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ネット論(仮題) - 近現代史めも - 戦前・戦中めも - 戦後めも
2012.04.24 作成
2012.04.24 ネット論(仮題)- 近現代史めもから分割
2012.05.18 戦後めも を分割
最終更新日は 2013.1.28
- 「こないだのいくさ」とは?
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戦前とは「こないだのいくさ」の前のこと。「こないだのいくさ」とは...(笑)
- 第2次大戦
- 戊辰戦争 (会津人..)
- 応仁の乱 (京都人..)
う〜んと、Wikipedia のリンクが中心になってますがあくまで概略として読みませう...。(偏向してるページも結構あるので。)
戦前 - リンク
私のような(おっさん)世代でもあんまり知らない人多いもんなぁ...戦争を知らないオッサンたち、ってか。
ちなみに、私の同世代には「お国のために」マンセー、「戦前の日本はヨカッタ」や「戦前の批判は祖先の冒涜だ」な考えの人も結構いたりするのですが、これって「戦争を知らないオッサンたち」の「洞窟のイドラ」か「劇場のイドラ」かなとか思います。
さらにちなんで、私の親世代以上 = 「戦争を知ってる人たち」、実際に戦地へ行った人、空襲時に防空壕に走った人たちはそんな会話を聞いて、なんというかすごく嫌そうな顔します。曰く「戦争ばーかしてなんもええことなかった」「食べ物ナカッタ」...
【追記】あっと、「食べ物ナカッタ」と書きましたが、私の祖母の場合は夕食はお新香と麦飯(戦時中は米が少しだけの芋飯、お昼の弁当がサツマイモ)、味噌汁や魚があったり、ってのが普通だったとか。
芝居かなんかのひとコマで「今日は誕生日だから玉子焼き作っちゃうよ!」ってのがありました。現在の普通の朝食は当時としては贅沢なご馳走だったと言えるのかも(もちろん、一部の上・中流階級の人は別として)
吉田松陰 - ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり?略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・?都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、沖縄(当時は独立した国家であった)の日本領化、朝鮮の日本への属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張した。松下村塾出身者の多くが明治維新後に政府の中心で活躍した為、松陰の思想は日本の対外政策に大きな影響を与えることとなった。
戦前年表
- 明治 - Wikipedia (1868-1912)
- 大正 - Wikipedia (1912-1926)
- 昭和 - Wikipedia (1926-1989)
- 歴代首相(明治・大正)と政治家
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- 伊藤博文 - Wikipedia (第1,5,7,10代首相, 韓国統監・立憲政友会)
- 黒田清隆 - Wikipedia (第2,3,6代首相, 陸軍中将)
- 山縣有朋 - Wikipedia (第3,9代首相, 元帥陸軍大将・参謀総長)
- 大隈重信 - Wikipedia (第8,17代首相, 憲政本党・早稲田大学総長)
- 西園寺公望 - Wikipedia (第12,14代首相, 立憲政友会・「最後の元老」)
- 桂太郎 - Wikipedia (第11,13,15代首相, 陸軍大将・陸相・台湾総督)
- 山本権兵衛 - Wikipedia (第16,22代首相, 海軍大将・海相・外相)
- 寺内正毅 - Wikipedia (第18代首相, 元帥陸軍大将・陸相・外相・韓国統監・朝鮮総督)
- 原敬 - Wikipedia (第19代首相, 立憲政友会総裁)
- 高橋是清 - Wikipedia (蔵相, 第20代首相)
- 加藤友三郎 - Wikipedia (第21代首相, 海軍大将・海相)
- 清浦奎吾 - Wikipedia (第23代首相)
- 加藤高明 - Wikipedia (第24代首相, 憲政会)
- 若槻禮次郎 - Wikipedia (第25,28代首相, 立憲民政党)
- 征韓論 - Wikipedia
- 明治六年政変 - 西郷隆盛 下野(1873)
- 佐賀の乱 - Wikipedia (1874/2)
- 自由民権運動 - Wikipedia (1874-1890)
- 台湾出兵 - Wikipedia (1874/5)
- 日朝修好条規 - Wikipedia (1876)
- 西南戦争 - Wikipedia (1877)
- 大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)(1878)
- 琉球処分 (1879)
- 軍人勅諭 - Wikipedia (1882)
- 天津条約 - Wikipedia (1885)
- 大日本帝国憲法 - Wikipedia (1890)
- 不平等条約 - Wikipedia
- 日米通商航海条約 - Wikipedia (1894,1899,1911)
- 日英通商航海条約 - Wikipedia (1894,1899,1911)
日清戦争
日清戦争 - ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」
- 日清戦争 - Wikipedia (1894-1895)
- 甲午農民戦争 - Wikipedia (1894/9/1)
- 旅順虐殺事件 - Wikipedia (1894/11/21)
- 下関条約 - Wikipedia (1895/4/17)
- 三国干渉 - Wikipedia (1895/4/23)
- 乙未戦争 - Wikipedia (1895/5/29-10/21)
- 義和団の乱 - Wikipedia (1900-1901)
- 日英同盟 - Wikipedia (1902)
日露戦争
- ポーツマス条約 - Wikipedia (1905/9/5)
- 日比谷焼打事件 - Wikipedia (1905/9/5)
- 日露協約 - Wikipedia (1907)
- 東郷平八郎 - Wikipedia(海軍大将・連合艦隊司令長官)
- 乃木希典 - Wikipedia(陸軍大将・第三軍司令官)
- 秋山真之 - Wikipedia(海軍中将・連合艦隊作戦参謀)
ジャワハルラール・ネルー - ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典ネルーは、大日本帝国が欧米帝国主義を見習って、他国を侵略したことを批判していた。『父が子に語る世界史』では、日露戦争とその結果について、日本の勝利がいかにアジア諸民族を勇気付けたか、それにも関わらずその結果は、帝国主義列強の一角に日本を付け加えただけであり、その悲惨を最初に舐めたのは朝鮮であったとして、日本がアジア諸民族の期待に沿わなかったことを厳しく批判した。
日本の(事実上の)勝利は(一部の?)アジア諸国へ希望を与えました。が、しかし、その後の日本は朝鮮併合、大陸への進出、満州事変、と帝国主義の道をガシガシと歩み始めるわけですな。希望はやがて失望へと...
この頃が日本軍のピークだったと考えると...クヤシサノキワミ。
- 条約改正 - Wikipedia (1911)
- ハーグ密使事件 - Wikipedia (1907)
- 韓国併合 - Wikipedia (1910)【注:日本の国益について記述がないような】
第一次世界大戦
- 第一次世界大戦 - Wikipedia (1914-1918)
- 第一次世界大戦下の日本 - Wikipedia
- 対華21ヶ条要求 - Wikipedia (1915)
- 石井・ランシング協定 - Wikipedia (1917/11/2)
- シベリア出兵 - Wikipedia (1918-1925)
- 尼港事件 - Wikipedia (1920)
- 第一次世界大戦下の日本 - Wikipedia
- ロシア革命 - Wikipedia (1917)
- 十四か条の平和原則 - Wikipedia (1918/1/8)
- パリ講和会議 - Wikipedia (1919/1/18)
- 人種的差別撤廃提案 - Wikipedia (1919/2/13)
- ヴェルサイユ条約 - Wikipedia (1919/6/28)
世界大戦の反省からまだまだ不完全ながらも「民族自決」「侵略戦争禁止」「植民地解放」と言った合意が形成され世界平和への流れができます。
※ でもとりあえず「自衛デス」と言っとけば(以下略)。どっかの国の軍隊みたいな...
第一次世界大戦 - ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典また、この戦争はボリシェヴィキがロシア革命を起こす契機となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機ともなった。
帝国主義崩壊の契機となりましたが、共産主義という新たな脅威が...
ワシントン体制
- 大正デモクラシー - Wikipedia
- 関東大震災 - Wikipedia (1923)
- 治安維持法 - Wikipedia (1925)
- 昭和金融恐慌 - Wikipedia (1927)
- 世界恐慌 - Wikipedia (1929)
- 昭和恐慌 - Wikipedia (1930)
- 国際連盟 - Wikipedia (1920/1/10)
- ワシントン会議
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- ワシントン会議 (1922年) - Wikipedia (1921/11/12-1922/2/6)
- 日英同盟破棄
- 九カ国条約 - Wikipedia
この「九カ国条約」ってのは中国に対して「ヌケガケしちゃだめよん」な条約。もちろん日本も参加してます。が...
- 幣原喜重郎 - Wikipedia(外相, 第44代首相)
- ジュネーブ海軍軍縮会議 - Wikipedia (1927/6/20)
- 不戦条約 - Wikipedia (1928)
- ロンドン海軍軍縮会議 - Wikipedia (1930)
- 第二次ロンドン海軍軍縮会議 - Wikipedia (1935/12/9)
満州事変以降の大陸での日本軍の行動を「遅れてきた帝国主義」と批判されるのはこの頃の外交を根拠としてるわけですね。
※ 「核兵器は作りまへん」と約束して援助を受けたクセに「なんでウチだけ持ったらアカンねん」てな開き直りしてる国がありますよねぇ。(※ もちろん一部ですが)この後の日本国はカノ国に似てると考えるとちょっとわかりやすいかも。肖像拝ませる、大本営発表、軍事優先・条約無視、やたら勇ましい演説、「経済制裁は宣戦布告だぁ!」勇猛果敢・謀略上等・牽強付会・嘘八百...
- 世界恐慌 - Wikipedia (1929/10/24)
- ニューディール政策 - Wikipedia
- イタリアでベニート・ムッソリーニが権力獲得 (1922/10/28)
- ドイツでアドルフ・ヒトラーが総統に就任 (1934/8/2)
- ドイツ再軍備宣言 - Wikipedia (1935/3/16)
- ソ連、スターリンによる大粛清 - Wikipedia (1936-1938)
- スペイン内戦 - Wikipedia (1936/7/17-1939/4/1)
- ゲルニカ爆撃 (1937/4/26)
※ 満州事変以降の日本は「内向き」の論理のみで動いてるように見えますなぁ。外征の理由は経済(資源・市場)だったはずが、そこに「自衛の論理」が加わり目的と手段がごっちゃになっちゃったような。手段のためのその費用(軍事費)の増大でニッチもサッチも行かなくなります。お金儲けするはずがお金をドブに捨ててるような状態に...
- 満州事変 (1931)
- 上海事変 - Wikipedia (1932/1/28)
- 五・一五事件 - Wikipedia (1932/5/15)
- 天皇機関説事件 - Wikipedia (1935/2/19)
- 二・二六事件 - Wikipedia (1936/2/26)
- 日独防共協定 - Wikipedia (1936/11/25)
- 日中戦争 (1937)
- ノモンハン事件 - Wikipedia (1939/5)
- 日独伊三国軍事同盟 - Wikipedia (1940/9/27)
第二次世界大戦
- 独ソ不可侵条約 - Wikipedia (1939/8/23)
- 第二次世界大戦
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- 第二次世界大戦 - Wikipedia (1939/9/1)
- ドイツ軍がポーランド侵攻 - Wikipedia (1939/9/1)
- イギリスとフランスがドイツに宣戦布告 (1939/9/3)
- ソ連軍がポーランド侵攻 (1939/9/17)
- カティンの森事件 - Wikipedia (1939/9-1941)
- ソ連軍がフィンランド侵攻(冬戦争) (1939/11/30)
- ソ連、国際連盟から追放 (1939/12/14)
- ナチス・ドイツ、デンマーク・ノルウェーに侵攻(北欧侵攻) (1940/4/9)
- ナチス・ドイツのフランス侵攻 - Wikipedia (1940/5)
- ソ連がバルト諸国占領 (1940/6)
- バトル・オブ・ブリテン - Wikipedia (1940/7/10-1940/10/31)
- レンドリース法 - Wikipedia (1941/3/11)
アメリカ、ソ連含む連合国への支援開始 (1941/3/11)
- 大西洋憲章 - Wikipedia (1941/8/9)
- 独ソ戦 - Wikipedia (1941/6/22)
- 日本軍が真珠湾攻撃 - Wikipedia (1941/12/8)
- ドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告 (1941/12/11)
- スターリングラード攻防戦 - Wikipedia (1942/6/28-1943/2/2)
- エル・アラメインの戦い - Wikipedia (1942/7/1)
- イタリアの講和 (第二次世界大戦) - Wikipedia (1943/9/8)
- ノルマンディー上陸作戦 - Wikipedia (1944/6/6)
- ブレトン・ウッズ協定 - Wikipedia (1944/7)
- ヤルタ会談 - Wikipedia (1945/2)
- ベルリンの戦い - Wikipedia (1945/4/16)
- アドルフ・ヒトラー自殺 (1945/4/30)
- 欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦) - Wikipedia (1945/5/7)
- ポツダム会談 - Wikipedia (1945/7/17-1945/8/2)
- 広島・長崎への原爆投下 (1945/8/6, 8/9)
- ソ連対日参戦 - Wikipedia (1945/8/9)
- 日本の降伏 - Wikipedia (1945/8/14)
- ニュルンベルク裁判 - Wikipedia (1945/11/20 - 1946/10/1)
- 誰が為に鐘は鳴る - Wikipedia
- 史上最大の作戦 - Wikipedia
- シンドラーのリスト - Wikipedia
- 眼下の敵 - Wikipedia
- カサブランカ (映画) - Wikipedia
戦前(戦中)の政治・思想
ナポレオン・ボナパルト - フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』戦争に勝つために必要なのは判断力であり、イデオロギーではない。
ガイウス・ユリウス・カエサル - フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』忍耐をもってよく苦痛に耐える男を見つけるより、喜んで死ぬ男をみつけるほうが容易である。
- 歴代首相(昭和以降)
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- 田中義一 - Wikipedia (1927/4/20-) (陸軍大将・陸相・外相, 立憲政友会)
- 濱口雄幸 - Wikipedia (1929/7/2-) (立憲民政党・ライオン宰相)
- 若槻禮次郎 - Wikipedia (1931/4/14-) (立憲民政党)
- 犬養毅 - Wikipedia (1931/12/13-) (外相・立憲政友会)
- 高橋是清 - Wikipedia (1932/5/16-) (蔵相・立憲政友会)
- 斎藤実 - Wikipedia (1932/5/26-) (海軍大将・海相・外相)
- 岡田啓介 - Wikipedia (1934/7/8-) (海軍大将・海相)
- 広田弘毅 - Wikipedia (1936/3/9-) (外交官・外相)
- 林銑十郎 - Wikipedia (1937/2/2-) (陸軍大将・陸相・外相・越境将軍)
- 近衛文麿 - Wikipedia (1937/6/4-) (外相・貴族院議員・火曜会)
- 平沼騏一郎 - Wikipedia (1939/1/5-) (貴族院議員)
- 阿部信行 - Wikipedia (1939/8/30-) (陸軍大将・外相・朝鮮総督・翼賛政治会)
- 米内光政 - Wikipedia (1940/1/16-) (海軍大将・海相・連合艦隊司令長官)
- 近衛文麿 (1940/7/22-)
- 東條英機 - Wikipedia (1941/10/18-) (陸軍大将・陸相・参謀総長)
- 小磯國昭 - Wikipedia (1944/7/22-) (陸軍大将・朝鮮総督)
- 鈴木貫太郎 - Wikipedia (1945/4/7-) (海軍大将・外相・軍令部長・連合艦隊司令長官)
- 東久邇宮稔彦王 - Wikipedia (1945/8/17-) (皇族・陸軍大将・陸相)
- 塩はうまくてまずいです : 戦前昭和史雑感
- 枢密院は若槻内閣の緊急勅令案を否決する (金融恐慌 - 1927)
- お前が最初に言ったことと違うじゃないか (張作霖爆殺 - 1928)
- 台風が来ているのに窓を全開にしてしまった (金解禁 - 1930)
- 軍令部を無視した条約調印は統帥権の干犯である (ロンドン海軍軍縮条約 - 1930)
- すでに出動せる以上は致し方なきにあらずや (満州事変 - 1931)
- 統帥権ブーメラン
- 暴走は止められたか
- 荒木中将ならば衆望の点は大丈夫に候 (皇道派台頭 - 1931)
- 話せばわかる (五・一五事件 - 1932/5/15)
- 脱退のやむなきに至るがごときは敢えて之をとらず (国際連盟脱退 - 1933/2/24)
- 巡洋艦1個戦隊と堀悌吉とどちらが大事だと思っているのか (大角人事 - 1933/3/11)
- 平沼のような神がかりを天皇のお側に近づけてはいけない (帝人事件 - 1934/4/18)
- 天皇はこれ法人たる国家の元首たる地位にありまし (天皇機関説問題 - 1935/2/18)
- 永田の前に永田なく永田の後に永田なし (相沢事件 - 1935/8/12)
- 朕自ら近衛師団を率いて此れが鎮定に当たらん (二・二六事件 - 1936/2/26)
- 政党政治
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- 立憲政友会 - Wikipedia (1900-1940)(伊藤博文, 尾崎行雄, 西園寺公望, 原敬, 高橋是清, 田中義一,犬養毅)
- 立憲改進党 - Wikipedia (1882-1896)(大隈重信, 尾崎行雄)
- 憲政本党 - Wikipedia (1898-1910)
- 立憲国民党 - Wikipedia (1910-1922) (犬養毅)
- 憲政本党 - Wikipedia (1898-1910)
- 立憲民政党 - Wikipedia (1927-1940) (濱口雄幸, 若槻禮次郎, 斎藤隆夫)
- 憲政会 - Wikipedia (1916-1927) (加藤高明, 濱口雄幸, 若槻禮次郎, 尾崎行雄)
- 原敬暗殺事件 - Wikipedia (1921/11/4)
- 普通選挙法 - Wikipedia (1925/5/5)
- 治安維持法 - Wikipedia (1925/5/12)
- 五・一五事件 - Wikipedia (1932/5/15)
- 二・二六事件 - Wikipedia (1936/2/26)
- 大政翼賛会 - Wikipedia (1940/10/12)
- 国体
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かつて、日本の国家と国土はこの神国思想(しんこくしそう)に基づいて神々によって作られて守られてきたものであるとされてきた。本来は農業国が持つ農耕儀礼に基づく信仰に由来するものであったが、後に選民意識と結びつき、更には国粋主義・排外主義・覇権主義・軍国主義的な思想へと転化していった。特に戦前には、対外戦争毎に強調され、国家神道を支えた[1]。
「日本人としての誇り」は誰もが持つべきもの(ってか意識しなくても誰でも持ってる)だと思いますが、この「誇り」をコドモの論理的に選民思想と勘違いして他民族蔑視になっちゃった場合もあったのじゃないかしらん。教育が洗脳になってはだめなのですね。
- 皇民化政策
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台湾・韓国だけでなく、日本が戦争中占領した東南アジア諸国についても、これについては暗い歴史として記されてるそうな。もちろんこれは日本の国益のために実施したわけですが、一部には「皇民(日本人)にしてあげます」的な考えがあったらしいですな。そりゃ禍根を残すのも当然と思ってしまいまする。よく「一部を除きアジア諸国は親日」とか言われますが、それはあくまで“現在の”日本国に対してなのですね。
他国でもあったわけですが、当時は「民族自決」の考えからやめる方向になってたようで、日本は逆行してたと言えるのかも。
- 大和魂 / 武士道精神
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「精神論」だけじゃだめ、というか、その前に「勉学」または「修練」あっての話かなと思ったり。偏重すると非合理的になったりするので何事もバランス。
ってか、国家としての土台がしっかりしてないというか精神的に未熟だったからこそ、こういう旗印的な精神論が必要だったりしたのかなぁ。
ヘルマン・ゲーリング - ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「……もちろん、国民は戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰って来る位しかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じ事です。政策を決めるのはその国の指導者です。そして国民は常に指導者の言いなりになるように仕向けられます。
……反対の声があろうがなかろうが、人々を政治指導者の望むようにするのは簡単です。 国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。そして国を更なる危険に曝す。このやり方はどんな国でも有効ですよ。」
※ 民主制・自由主義な社会では通用しないかと思われますが...
愛国心ってなんだろう?
※ 本来は「故郷を想う心」じゃないかなと想ったり。
日本軍
- 陸軍悪玉論
-
敗戦の原因として一つ上げるならば「陸軍の暴走」となりますから、こういうのも仕方がないように思います。実際に歴史を見返してみると陸軍はかなりやらかしてますです。
しかし、陸軍の圧力という要因が大きいにせよ、それを助長した要因も他にいっぱいあるわけなのでこれ1点だけでは失敗の構造は見えて来ないのではないかと。
陸軍
- バーデン=バーデンの密約 - Wikipedia (1921/10/27)
- 木曜会 (日本陸軍) - Wikipedia (1927-)
- 一夕会 - Wikipedia (1929-)
- 岡村寧次 - Wikipedia (陸軍大将・支那派遣軍総司令官)
- 永田鉄山 - Wikipedia (陸軍中将・陸軍省軍務局長)
- 東條英機 - Wikipedia (陸軍大将・関東軍参謀長・陸相・参謀総長・第40代首相)
- 鈴木貞一 - Wikipedia (陸軍中将)
- 石原莞爾 - Wikipedia (陸軍中将・関東軍参謀)
- 板垣征四郎 - Wikipedia (陸軍大将・関東軍参謀長・陸相・参謀総長)
- 武藤章 - Wikipedia (陸軍中将)
- 統制派 - Wikipedia
- 皇道派 - Wikipedia
- 荒木貞夫 - Wikipedia (陸軍大将・陸相・文相)
- 真崎甚三郎 - Wikipedia (陸軍大将)
- 小畑敏四郎 - Wikipedia (陸軍中将)
- 三月事件 - Wikipedia (1931/3)
- 十月事件 - Wikipedia(錦旗革命事件) (1931/10)
- 陸軍士官学校事件 - Wikipedia(十一月事件) (1934/11/20)
- 相沢事件 - Wikipedia(永田鉄山殺害) (1935/8/12)
- 二・二六事件 - Wikipedia (1936/2/26)
- 宇垣一成 - Wikipedia (陸軍大将・陸相・外相・朝鮮総督)
- 杉山元 - Wikipedia (元帥陸軍大将・陸相・参謀総長)
- 山下奉文 - Wikipedia(陸軍大将・マレーの虎)
- 本間雅晴 - Wikipedia(陸軍中将)
- 栗林忠道 - Wikipedia(陸軍大将)
- 今村均 - Wikipedia(陸軍大将)
- 佐藤幸徳 - Wikipedia(陸軍中将)
- 中村明人 - Wikipedia(陸軍中将・タイ国駐屯軍司令官)
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- 木村兵太郎 - Wikipedia(陸軍大将・ビルマ方面軍司令官)
- 陸軍大臣 - Wikipedia
- 田中義一 - Wikipedia (1923/9/2-)
- 宇垣一成 - Wikipedia (1924/1/7-)
- 白川義則 - Wikipedia (1927/4/20-)
- 宇垣一成 - Wikipedia (1929/7/2-)
- 南次郎 - Wikipedia (1931/4/14-)
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- 中村孝太郎 - Wikipedia (1937/2/2-)
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- 板垣征四郎 - Wikipedia (1938/6/3-)
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- 杉山元 - Wikipedia (1944/7/22-)
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- 参謀総長 (参謀本部 (日本) - Wikipedia)
- 鈴木荘六 - Wikipedia (1926/3/2-
- 金谷範三 - Wikipedia (1930/2/19-
- 閑院宮載仁親王 - Wikipedia (1931/12/23-1940/10/3)
- 杉山元 - Wikipedia (1940/10/3-1944/2/21)
- 東條英機 - Wikipedia (1944/2/21-1944/7/14)
- 梅津美治郎 - Wikipedia (1944/7/14-1945/11/30)
海軍
- 山本五十六 - Wikipedia(元帥海軍大将・連合艦隊司令長官)
- 南雲忠一 - Wikipedia(海軍大将)
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- 海軍大臣 - Wikipedia
- 米内光政 - Wikipedia (1937/2/22-(1939/8/30)
- 吉田善吾 - Wikipedia (1939/8/30-1940/9/5)
- 及川古志郎 - Wikipedia (1940/9/5-1941/10/18)
- 嶋田繁太郎 - Wikipedia (1941/10/18-1944/7/17)
- 野村直邦 - Wikipedia (1944/7/17-1944/7/22)
- 米内光政 - Wikipedia (1944/7/22-1945/12/1)
- 軍令部総長 (軍令部 - Wikipedia)
- 伏見宮博恭王 - Wikipedia (1932/2/2)
- 永野修身 - Wikipedia (1941/4/9)
- 嶋田繁太郎 - Wikipedia (1944/2/21)
- 及川古志郎 - Wikipedia (1944/8/2)
- 豊田副武 - Wikipedia (1945/5/29)
- 連合艦隊司令長官 - Wikipedia
- 山本五十六 - Wikipedia (1939/8/30-1943/4/18)
- 古賀峯一 - Wikipedia (1943/4/21-1944/3/31)
- 豊田副武 - Wikipedia (1944/5/3-1945/5/1)
- 小沢治三郎 - Wikipedia (1945/5/29-1945/10/10)
満州国
- 満州国 - Wikipedia (1932-1945)
- 南満州鉄道 - Wikipedia (1906)
- 関東軍 - Wikipedia (1919)
- 満蒙開拓移民 - Wikipedia
- 張作霖爆殺事件 - Wikipedia (1928)
- 満州事変
-
- 満州事変 - Wikipedia (1931)
- リットン調査団 - Wikipedia (1932/1)
- 国際連盟 脱退 (1933/3/27)
- 塘沽協定 - Wikipedia (1933/5/31)
- 外務省: 第二次外相時代 幣原外交終焉の時
日本の主張では「ジエイ」デス。でも“ジサクジエイ”ンデシタ。
- 愛新覚羅溥儀 - Wikipedia
- 板垣征四郎 - Wikipedia(関東軍参謀長・陸軍大将・陸軍大臣)
- 石原莞爾 - Wikipedia(陸軍中将・ 関東軍参謀副長)
- 河本大作 - Wikipedia(陸軍大佐・関東軍参謀)
石原莞爾 - ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典内蒙古での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。
- 河豚計画 - Wikipedia
- 樋口季一郎 - Wikipedia(陸軍中将)
- 安江仙江 - Wikipedia(陸軍大佐)
- 平頂山事件 - Wikipedia (1932/9/16)
日中戦争
大陸進出(侵略)の大元の理由は経済的要因なわけですが、途中から「戦争を終わらせるため」という手段が目的で、そのまた目的が手段だという泥縄状態になっちゃったような...
あっと、きっかけは中国側の挑発(※ 抗日の原因は満州事変)なのですが、日本側の開戦理由が「おイタな子をちょっとこらしめる」というコドモのケンカみたいな...
だが、かくも悲惨な結末が待ち受けていようとは知る由もなかったのであった...
- 対華21ヶ条要求 - Wikipedia (1915)
- 対支一撃論 - Wikipedia
- 岡村寧次 - Wikipedia(陸軍大将・支那派遣軍総司令官)
- 九カ国条約 - Wikipedia (1922)
- 軍部大臣現役武官制 - Wikipedia (1936)
- 大政翼賛会 - Wikipedia (1940-1945)
- 日独防共協定 - Wikipedia (1936/11/25)
- 中独合作 - Wikipedia (-1938/5)
- 日独伊三国軍事同盟 - Wikipedia (1940/9/27)
- 援蒋ルート - Wikipedia
- フライング・タイガース - Wikipedia
- トラウトマン工作 - Wikipedia (1937/11-1938/1/16)
- 斎藤隆夫 - Wikipedia
- 粛軍演説 - Wikipedia (1936/5/7)
- 反軍演説 - Wikipedia (1940/2/2)
- 中国の政府
-
- 北京政府 - Wikipedia (1912-1928)
- 国民政府 - Wikipedia (1925-1949)
- 南京国民政府期 - 中華民国の歴史 - Wikipedia (1928-1949)(1937 重慶へ撤退)
- 北伐 - Wikipedia (1926-1928)
- 南京事件 (1927年) - Wikipedia (1927)
- 上海クーデター - Wikipedia (1927/4/12)
- 冀察政務委員会 - Wikipedia(宋哲元)(1935/12/18)
- 国民革命軍 - Wikipedia(中華民国国軍)
- 張学良ら蒋介石 を拘束(西安事件)(1936/12/12)
- 国共合作 - Wikipedia (1924-1927, 1937-1945)
- 中国共産党
- 南京国民政府など
-
※ 大日本帝国の傀儡政権
- 汪兆銘政権 - Wikipedia(南京国民政府) (1940-1945)
- 中華民国臨時政府 (北京) - Wikipedia(王克敏 )(1937-1940)
- 冀東防共自治政府 - Wikipedia(殷汝耕)(1935-1938)
- 通州事件 - Wikipedia (1937/7/29)
- 中華民国維新政府 - Wikipedia(梁鴻志)(1938-1940)
- 中華民国臨時政府 (北京) - Wikipedia(王克敏 )(1937-1940)
日本軍得意のいわゆる傀儡なのですが、この時代に親日派中国人もいたのがやや不思議なかんじ。通州事件では飼い犬に咬まれたりしてますが...
- 蒙古聯盟自治政府 - Wikipedia
- 蒙古聯合自治政府 - Wikipedia (1939-1945)
- 汪兆銘政権 - Wikipedia(南京国民政府) (1940-1945)
- 山東出兵 - Wikipedia (1927-1928)
- 済南事件 - Wikipedia (1928)
- 満州事変 (1931)
- 上海日本人僧侶襲撃事件 - Wikipedia (1932/1/18)
- 上海事変 - Wikipedia (1932/1/28)
日中戦争(北支事変、支那事変)
Army History, Pacific War FAQ|軍事板常見問題&良レス回収機構【質問】
日本軍は中国軍に対しては勝ったの?【回答】
日本は中国に侵攻して結局その「広大な国土」を制圧できなかったし,また制圧する力量を持たなかったにも関わらず,対中戦に「負けた」と思ってる日本人は少ない.やれ便衣兵がどうの,すぐに投降しただのミニマムレベルでの話にすり替えて,中国人は卑怯だったとかだら しなかったとか精神論に還元してしまって,対中国戦に「負けた」ことを認めようとしない.
中国のような広大な領土を有する国に対して,装備の精鋭さを自慢しても意味ないんだよ.
一旦開戦すれば,緒戦はともかく,結局は持久& 総力戦に持ち込まれる.そうなった場合,日本と中国のどちらが持久力があると思っているのか?
- 日中戦争 - Wikipedia (1937-1945)(支那事変)
武士道精神って支那(中国)は対象外だったのでしょうか?(※ 中国側も結構エグいことしてますが)
※ 「コンナノエイコウアルニホングンジャナイー」と叫びたかったり...日本軍ばかり非難されるのは不公平で悔しいことなれど、今のアメリカもそんな心情だったりして。
- 盧溝橋事件 - Wikipedia (1937/7/7)
現地では停戦協定が成立しました。それなのに、ああそれなのに、日本政府は増援部隊派兵を決定、威圧のつもりが中国側の反発を招き徹底抗戦宣言へと...
※ 停戦のチャンスは何度もあったのにそれをまとめられる政治家が大日本帝国には存在しなかったのでした...
- 「最後の関頭」演説 (1937/7/19)
- 廊坊事件 - Wikipedia (1937/7/25)
- 広安門事件 - Wikipedia (1937/7/26)
- 通州事件 - Wikipedia (1937/7/29)
- チャハル作戦 - Wikipedia (1937/8/9-1937/10/17)
- 陽高事件 (1937/9/9)
- 第二次上海事変 - Wikipedia (1937/8/13)
- 渡洋爆撃 - Wikipedia (1937/8/14)
- 中ソ不可侵条約 - Wikipedia (1937/8/21)
- 南京攻略戦 - Wikipedia (1937/12/7)
- パナイ号事件 - Wikipedia(パネー号事件)(1937/12/12)
- 徐州会戦 - Wikipedia (1937/12-1938/5/19)
- 「国民政府を対手とせず」近衛声明 - Wikipedia (1938/1/16)
- 黄河決壊事件 - Wikipedia (1938/6/9)
- 武漢作戦 - Wikipedia (1938/6/11-1938/10/27)
- 東亜新秩序 - Wikipedia (1938/11/3)
- 長沙大火 - Wikipedia (1938/11/13)
- 重慶爆撃 - Wikipedia (1938/12/4)
- 百団大戦 (1940/8/20 - 12/3)
- 冬季攻勢 (1939-1940年) - Wikipedia
- 燼滅作戦 - Wikipedia(三光作戦?) (1940)
- ユ南事変 - Wikipedia (1941/1/4)
- 中原会戦 - Wikipedia (1941/5/7 - 6/15)
- 第一次長沙作戦 - Wikipedia (1941/9/18 - 10/6)
- 第二次長沙作戦 - Wikipedia (1941/12/24 - 1942/1/16)
局地戦においては日本軍が損害は出しつつも優勢だったようですが、中国側は友好国であるアメリカなどの援助を受け必死の抵抗を続けます。戦争を終わらせたい日本軍は援蒋ルートを遮断するため北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐、その後「南部行くなら覚悟しときや〜」の警告を無視して南部仏印進駐を行い、ついにはアメリカの逆鱗に...という流れ。
※ 交渉した上での進駐でしたが、やり方が強引だった模様。ってかアメリカの邪魔をしたわけで怒るのは当然だったと思えるのですが、日本側は「予想外」の反応だったという。
- 大陸打通作戦 - Wikipedia (1944/4/17)
- 拉孟・騰越の戦い - Wikipedia (1944/6/2-1944/9/14)
- 湘西作戦 - Wikipedia (1945/4)
毛沢東 - フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』私は日本の友達と対談した。彼らは言った。「日本帝国の軍隊が中国を侵攻したことを遺憾に思う。」私は彼らに言った。「いいえ、もしあなたの帝国軍が中国の半分を占領しなければ、中国の人々はあなたに対して団結しなかっただろうし、我々は今日政権を握っていなかっただろう。」
太平洋戦争
松岡洋右 - フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』三国同盟は僕の一生の不覚だった。三国同盟はアメリカの参戦防止によって世界戦争の再起を予防し、世界の平和を回復し、国家を泰山の安きにおくことを目的としたのだが事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと、死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない。
- ナチス・ドイツ - Wikipedia (1933-1945)
- ベニート・ムッソリーニ - Wikipedia
- ヨシフ・スターリン - Wikipedia
- フランクリン・ルーズベルト - Wikipedia
- ウィンストン・チャーチル - Wikipedia
- 大西洋憲章 - Wikipedia (1941/8/12)
- 国際連盟脱退でござるの巻 - 1933 (´・ω・`)
- 日独防共協定 - 1936
- (日)ヽ( ゚∀゚)/ ヒャッハー、ソ連の思うようにはさせないぜー!
- 支那事変 - 1937
- (日)(´▽`;) ヒャ...したけどちょっと雲行きが...もうお金ないぽ
- ノモンハン - 1939/5
- (日)(;´Д`A ``` け、結構やるやんけ、まぁこれぐらいに(ry
- 独ソ不可侵条約 - 1939/8
- (日)Σ(゜Д゜;) エェー?ド、ドイツはん何してまんの?
- 三国同盟 - 1940/9
- (日)ヽ( ゚∀゚)/ ヒャッハー、ソ連の思うようにはさせないぜー!アゲイン〜
- (日)(´・ω・`) ... 米英蘭と仲悪くなっちゃいますたYO!
- 日ソ中立条約 - 1941/4
- (日)ヽ( ゚∀゚)/ ソ連と手打ちしてアメに対抗するYO!
- (ソ)Ψ( ̄∀ ̄)Ψケケケだまされてやーんのwww
- バルバロッサ〜 - 1941/6
- (日)Σ(゜Д゜;) エェー?、と、とりあえず中立でいいよNE?
- (日)ヽ( ゚∀゚)/ ドイツ快進撃だお!ソ連ザマーwww
- 真珠湾攻撃 - 1941/12
- 物量の違いが戦力の決定的差ではないということを教えてやる!
- (日)ヽ( ゚∀゚)/ 快進撃www〜
- (日)... (´;ω;`) 束の間だったお...
- やめろ、辻ーん!
- ドイツ降伏 - 1945/5
- (日)(´・ω・`) ひとりぼっちですYO!
- ソ連参戦 - 1945/8
- (日)(#`Д´) お、おのれー裏切りとは武士の風上(ry
- (ソ)(・∀・) ザマーwww、むしりとっちゃうZE!
- (ア)( ̄ー ̄) そうはさせねぇぜ!
- (ソ)(`Д´*)q お、おぼえてやがれ!
※ こうして日本は少し助かった(と言えるのか?)わけですが.....東欧・ベルリン・中国・北朝鮮・ベトナムと見てみますと.....真の勝者はどう見てもソ連です。本当にありがとうございました。
- 日蘭会商 - Wikipedia
- 第一次日蘭会商 (1934-37)
- ナチスドイツ、オランダ侵攻 (1940/5/10, 5/15降伏)
- 第二次日蘭会商 (1940/5/20-1941/6/17)
- 日米通商航海条約の失効 (1940/1/26)
- 日独伊三国軍事同盟 - Wikipedia (1940/9/27)
- 仏印進駐 - Wikipedia(ヴィシー政権)
- 北部仏印進駐 (1940/9/23)
- 南部仏印進駐 (1941/7/28)
- 日ソ中立条約(大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間中立条約) - Wikipedia (1941/4/13)
- 東條内閣 - Wikipedia (1941/10/18-1944/7/22)
- 帝国国策遂行要領 - Wikipedia (1941/9/6, 1941/11/5)
- 日米交渉 (1941年) - Wikipedia (1941/4-1941/11)
- インターネット特別展 公文書に見る日米交渉
- ハル・ノート - Wikipedia (1941/11/26)
- ABCD包囲網 - Wikipedia
日蘭会商でのオランダの回答は平時には十分な量だったようですが、それでは戦争できまへんと交渉を蹴っちゃいます。対米戦回避の最後の手段となった日米交渉での日本側の要求は「こっちの言う事きくなら考えたっていいで」みたいな立場わかってへん態度に思えます。ここで有名な「ハル・ノート」登場。もういいや...
※ いや、もちろんそんな単純な話ではないです。
まぁ、日本は「資源確保」を目的に開戦準備も着々とやってたわけですけど。
あ〜あっと、この日米交渉を“戦争回避交渉”と位置付けたのは日本側(のお家事情)でして、アメリカ側としてはブツを売る売らないの貿易交渉ですね。「ハル・ノート」は条件提示であり、これを最後通牒と受け取ってしまったのは(というか「逆切れ」かな)日本の政治力の限界だったのかもしれないなんて考えてみたり。
ドイツと反共同盟組みつつソ連と不可侵条約結び、最大の貿易相手の友好国と条約破りの戦争を続け貿易相手の邪魔をし、戦争の為の資源をストップされたらその貿易相手を鬼畜と呼び自ら戦争仕掛ける.....ど う し て こ う な っ た!
※ アメリカ側も日本の内部事情や外交力を理解してなかったようで、ちょっと甘いというか読み違いしてた風にも感じます。日本は既にこの時点で日中戦争による疲弊で経済はボロボロ、議会政治もまともに機能していなかったわけですし。
太平洋戦争(大東亜戦争)
兵站 - ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「戦争のプロは兵站を語り、戦争の素人は戦略を語る」といわれる[2]。軍隊の維持運用、ひいては戦争全体の勝敗は、兵站の運用にかかっている。ナポレオンや旧日本軍など、過去に兵站を重視しなかったために大敗した軍は数知れず、軍事・民生にかかわらず兵站・ロジスティックに関する研究は非常に多い[3]。
- 太平洋戦争 - Wikipedia (1941-1945)
日本軍が攻撃を開始したその頃、独ソ戦ではソ連の反転攻勢が始まっていたのでした...
- 真珠湾攻撃 - Wikipedia (1941/12/8)
第1航空艦隊によるハワイ真珠湾への奇襲攻撃、戦艦5隻沈没などの戦果
- 南方作戦
-
- マレー作戦 - Wikipedia (1941/12/8)
イギリス領マレーおよびシンガポールを占領
- タイ王国進駐 - Wikipedia (1941/12/8-)
- 香港の戦い - Wikipedia (1941/12/8-12/25)
- 第二次長沙作戦 - Wikipedia (1941/12/24-/1942/1/16)
香港攻略は成功(イギリス降伏)するが長沙作戦は失敗
- マレー沖海戦 - Wikipedia (1941/12/10)
イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈
- フィリピンの戦い (1941-1942年) - Wikipedia (1941/12/8)
- 蘭印作戦 - Wikipedia (1942/1/11)
蘭印(オランダ領東インド)を占領
- ビルマの戦い - Wikipedia (1941/12/8)
- セイロン沖海戦 - Wikipedia (1942/4/5)
海軍空母機動部隊とイギリス海軍の東洋艦隊を撃破、しかし反省点もいくつか。
- マダガスカルの戦い - Wikipedia (1942/5/15-11/6)
- 遣独潜水艦作戦 - Wikipedia
- ギルバート・マーシャル諸島の戦い
-
- ギルバート・マーシャル諸島の戦い - Wikipedia (1941/12/10-)
- アメリカ本土攻撃
-
- アメリカ本土砲撃 - Wikipedia (1941/12)
- ロサンゼルスの戦い - Wikipedia (1942/2/25)
謎の飛行物体を日本軍の空襲と誤認して迎撃、はて真相は?
- アメリカ本土空襲 - Wikipedia (1942/9)
- ニューギニアの戦い
-
- ニューギニアの戦い - Wikipedia (1942/3/7-)
日本軍は過酷な環境の中、飢餓・伝染病に苦しめられる。20万以上参加、生還は2万。
- 珊瑚海海戦 - Wikipedia (1942/5/8)
歴史上初の空母艦隊どうしの海戦、米側に損害は与えたがポートモレスビー攻略は断念。司令井上成美が批判を受ける。
- ドーリットル空襲
-
- ドーリットル空襲 - Wikipedia (1942/4/18)
空母ホーネットから発艦したB-25が日本本土を空襲。これに衝撃を受けた日本はミッドウェー作戦の実行を急ぐことに。
- ミッドウェー海戦
-
これは有名ですね。
- ミッドウェー海戦 - Wikipedia (1942/6/5)
空母4隻喪失、多数の艦載機及び熟練搭乗員を失う致命的な敗北となりました。
- ソロモン諸島の戦い
-
- ソロモン諸島の戦い - Wikipedia (1942/1-)
- FS作戦 - Wikipedia(フィジー、サモア攻略作戦)
米豪遮断作戦の一環
- ガダルカナル島の戦い - Wikipedia (1942/8/7-1943/2/7)
ガダルカナル島をめぐる凄惨な戦い。日本にとっては悲惨な消耗戦に。大量の輸送船が撃沈、補給が途絶え多くの兵が餓死するという地獄絵図...
- 南太平洋海戦 - Wikipedia (1942/10)
米軍は一時的に空母0となりますが、日本側もいっぱいっぱいな状態。
- ラバウル航空隊 - Wikipedia (1942/1)
- ケ号作戦 - Wikipedia (1943/2/1)
玉砕ばかりはなく、撤退・救出作戦もやってたことはあまり知られていないような気がします。
- ビスマルク海海戦 - Wikipedia (1943/3/2)
第八十一号作戦「ダンピールの悲劇」。
- 海軍甲事件 - Wikipedia (1943/4/18)
連合艦隊司令山本長官の戦死。
- ラバウル空襲 - Wikipedia (1943/10)
- アリューシャン方面の戦い - Wikipedia
- アッツ島の戦い - Wikipedia (1943/5/12-5/29)
- キスカ島撤退作戦 - Wikipedia (1943/7/29)
アリューシャン列島アッツ島守備隊の「玉砕」
- 絶対国防圏 - Wikipedia (1943/9/30)
- 大東亜会議 (1943/11/5)
- カイロ宣言 - Wikipedia (1943/11/22)
- 海軍乙事件 - Wikipedia (1944/3/31)
連合艦隊司令古賀大将が搭乗機墜落で殉職。作戦書類が奪われる失態。
- マリアナ・パラオ諸島の戦い
-
- 絶対国防圏 - Wikipedia (1943/9/10)
- マリアナ・パラオ諸島の戦い - Wikipedia (1944/6/15-9/10)
- サイパンの戦い - Wikipedia (1944/6/15-7/9)
水際撃滅作戦は通用せず。サイパン島の放棄、バンザイ突撃で玉砕、南雲中将自決。多くの民間人も自決する悲劇(バンザイクリフ, スーサイドクリフ)。
- テニアンの戦い - Wikipedia (1944/7/24-8/1)
サイパン・テニアン陥落により本格的に本土空襲が始まることに。
- マリアナ沖海戦 - Wikipedia(あ号作戦) (1944/6/19-6/20)
日本が空母9、アメリカはなんと空母15の大海戦。日本軍のアウトレンジ戦法は通用せず「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれ航空機の損失は378機、空母3隻喪失、機動部隊壊滅の惨敗
- ペリリューの戦い - Wikipedia (1944/9/15)
洞窟要塞構築、持久戦に持ち込み米軍側に大損害。しかし補給がない為最期は玉砕。
(元日本の委任統治領)パラオと言えば今でも親日として有名だったりしますね。
- インパール作戦
-
日本陸軍歴史的敗北、兵站軽視(無視?)の無謀な作戦として有名ですね。
- インパール作戦 - Wikipedia (1944/3)
「靖国街道」とかどんなに無念だったことでしょうか。牟田口閣下...
この敗退の結果、ビルマのアウン・サン将軍はイギリス側へ寝返り日本軍に対し決起
- 拉孟・騰越の戦い - Wikipedia (1944/6/2-1944/9/14)
中国(ビルマ国境)でも日本軍守備隊が玉砕
- 小磯内閣 - Wikipedia (1944/7/22-1945/4/17)
米内光政海相、杉山元陸相。人気も信用もなく和平工作も失敗。
- 明号作戦 - Wikipedia (1945/3/9-5/15)
ヴィシー政権崩壊を受け、仏印フランス軍制圧
- 鈴木貫太郎内閣 - Wikipedia (1945/4/7-1945/8/17)
- フィリピンの戦い
-
- 台湾沖航空戦 - Wikipedia (1944/10/12-10/16)
- レイテ島の戦い - Wikipedia (1944/10/23-10/25)
- レイテ沖海戦 - Wikipedia (1944/10/23)
日本海軍は持てる総力を投じる。初の神風特別攻撃隊の攻撃など。栗田艦隊の謎の反転、空母4隻、戦艦3隻喪失など組織的攻撃能力を失う敗北。
- マニラの戦い (1945年) - Wikipedia (1945/2/3)
結果、連合艦隊の壊滅、ジャングルで餓死・病死など、戦死33万。
- 玉砕
-
- 戦陣訓 - Wikipedia (1941/1)
- バンザイ突撃 - Wikipedia
大戦後期、連合国軍が日本本土に迫ると、軍部は「本土決戦」の準備を開始するとともに、“一億国民[3]の全てが軍民一体となって玉砕する事で連合国軍は恐怖を感じて撤退するだろうし、たとえ全滅したとしても日本民族の美名は永遠に歴史に残るだろう”と主張し国民の士気を鼓舞し総力戦体制の維持を試みたが、1945年8月に入ると原子爆弾の投下やソ連対日参戦など、軍部の思惑を裏切る事態が次々に発生し、遂に日本はポツダム宣言を受諾して降伏をしたため、本土決戦は行われることは無かった。
- 特攻
-
- 特別攻撃隊 - Wikipedia (1944)
「特攻」については「命令してはいけない作戦」だと思ったり。古代進が「コスモタイガー、特攻せよ」なんてありえない...
- 大陸打通作戦
-
- 大陸打通作戦 - Wikipedia (1944/4/17)
- シ江作戦 - Wikipedia (1945/4)
中国での最後の攻勢、装備強化された中国軍に敗北し撤退
- ヤルタ会談(ヤルタ協定)
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- ヤルタ会談 - Wikipedia (1945/2/4/-2/11)
アメリカ・ソ連・イギリス3国の秘密協定、台湾返還、朝鮮の信託統治、ソ連参戦の取り決め。
- 日本本土の戦い
-
- 飢餓作戦 - Wikipedia (1945/3)
- 本土空襲
-
- 日本本土空襲 - Wikipedia (1944)
- 東京大空襲 - Wikipedia (1945/3/10)
3.10の大空襲では死者10万人。
- 硫黄島の戦い
-
- 硫黄島の戦い - Wikipedia (1945/2)
- 沖縄戦
-
- 沖縄戦 - Wikipedia (1945/3/26-6/20)
- 菊水作戦 - Wikipedia (1945/4/6)
- 坊ノ岬沖海戦 - Wikipedia (1945/4/7)
- シュガーローフの戦い - Wikipedia (1945/5/12)
- ポツダム宣言
-
- ポツダム宣言 - Wikipedia (1945/7/26)
米英中3か国、日本の無条件降伏を韓国。ソ連の仲介の和平工作に望みをかけていたていた鈴木内閣はこれを「黙殺」。
- 原爆投下
-
- 広島市への原子爆弾投下 - Wikipedia (1945/8/6)
- 長崎市への原子爆弾投下 - Wikipedia (1945/8/9)
- ソ連参戦
-
- ソ連対日参戦 - Wikipedia (1945/8/9)
- 葛根廟事件 - Wikipedia (1945/8/14)
- 占守島の戦い - Wikipedia (1945/8/18-8/21)
- アウン・サン - Wikipedia
- スカルノ - Wikipedia
- インドネシア独立戦争 - Wikipedia (1945-1949/12/27)
- スマラン事件 - Wikipedia
- バオ・ダイ - Wikipedia
- ノロドム・シハヌーク - Wikipedia
- スバス・チャンドラ・ボース - Wikipedia
- 悲劇・事件
-
- シンガポール華僑虐殺事件 - Wikipedia (1942/2)
- バターン死の行進 - Wikipedia (1942/4)
- 泰緬鉄道 - Wikipedia
- サンダカン死の行進 - Wikipedia (1945/1)
- マニラ大虐殺 - Wikipedia (1945/2)
- 久米島守備隊住民虐殺事件 - Wikipedia (1945/6)
- バンザイクリフ - Wikipedia
- スーサイドクリフ - Wikipedia
- 沖縄戦における集団自決 - Wikipedia
- ひめゆりの塔 - Wikipedia
- 真岡郵便電信局事件 - Wikipedia (1945/8/20)
- 来民開拓団 - Wikipedia
- 小笠原事件 - Wikipedia (1945/3/9)
- 九州大学生体解剖事件 - Wikipedia
- 白馬事件 - Wikipedia (1944/2)
- 戦場にかける橋 - Wikipedia
- 地上より永遠に - Wikipedia
- シン・レッド・ライン - Wikipedia
- ビルマの竪琴 - Wikipedia
- はだしのゲン - Wikipedia
- 火垂るの墓 - Wikipedia
- 連合艦隊 (映画) - Wikipedia
- 大日本帝国 (映画) - Wikipedia
- 硫黄島からの手紙 - Wikipedia
- 太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男- - Wikipedia
「こないだの戦争」については、知れば知るほど「先人の無念」への思いが強くなったりしますなぁ。死者300万人は重過ぎます。
「物量」だけでなく「国力」(生産力や物流などを含めた総合的なシステム)の差について理解してる人がどれくらいいたのでせうか?
ちなみに私の祖父は軍人ではありませんでしたが、父方が行方不明、母方は徴用船撃沈、でした...。
※ 終身雇用や年金制度などの基礎はこの時期に戦争遂行のために作られたんだとか。日本的ないいものもあったということで。
- 【愚考その1】アジア解放?
-
「アジアの盟主が日本って誰が決めたの?」「なんで日本がアジアのためにわざわざ戦争始めにゃならんの?」「ナチス・ドイツと組むなんてorz」とかまぁ色々考えが浮かびますが...
この戦争の大義名分は「自存自衛」「アジア解放」「反人種差別」などですが、その第1目的というかホンネは石油などの資源確保(その前は援蒋ルートの遮断かな)、と考えられます。
まぁ「自衛」と「解放」は開戦のおやくそくというか後付の大義名分ですが。
結果論だと、敗戦(というか惨敗)したとはいえ、いくつかの国で独立に繋がったと一応は言えるかもしれません。「あの戦争が独立へのきっかけとなった」ということは間違いではありませぬ。但し、それは影響を与えただけで日本の功績ではなく、むしろ日本への失望が要因だったりしますな。
でも、台湾は中華民国となってしまいました(実効的支配)。
でも、朝鮮・ベトナムは分割されその一方は共産主義国家となりました。
そして、中国はその後“見事に”共産主義の大国となりました。
あくまで結果論なわけですが、共産主義国家も増えてしまいました...
...あぁ、あと終戦時にはボロボロでしたが経済大国となった日本国自身についてはどう考えたらいいのでせうか?...
※ 一部に「日本は欧米諸国とは違い植民地に教育などを施した」なんて意見がありますが、スカルノやアウンサン、リー・クアンユーやラーマンやマルコス、パール判事はどこで勉強したのでせう...
※ まぁ「アジア解放」(中国・韓国は含まない)については国ごとに調べてみればわかるかと思いますが、他国に頼らずそれぞれの国民自身が勝ち得たものだったりするわけで、「アジア解放」をホンネとしてがんばった日本軍人もいるのですがその結末は...日本人としてはかなり複雑な心境になりまする。
「許そう。しかし忘れまい」
- 【愚考その2】敗因は?
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「負けを認めぬ限り負けではない!」
冗談はさておき、いっぱいありすぎというか、条件ないないづくしなので簡単に言えるものではないと思いますが、「米英の協力が得られなかったこと」なんて言ってみたりします。つまり「日露戦争の様に米英の協力があれば勝てた」と。...なんという偉大なる矛盾。
日露戦争の結果を大勝利と国民が勘違い(?)したとこからボタンの掛け違えが始まり、満州事変で後戻り不能になったのではと。で、石原莞爾氏は対中・対米戦争のどちらも大反対していたという...大いなる皮肉。
大日本帝国陸軍が満州事変を起こし、満州国を建国した後、国際連盟に拒否され、脱退した事については「連盟よさらば」という歌まで作って松岡洋右代表を褒めている。
軍部の独走や精神論偏重とかありましたが、「民衆の熱狂」がもっとも危険なことなのかもしれませんね。ナチス・ドイツの例とか見ると「世論」が常に正しい道とは限らないと。。
- 【愚考その3】戦争は避けられなかったのか?
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仮定や可能性の話はいくらでもできるわけで愚見にしかなりませんが、満州事変以降の流れではかなり難しいことじゃなかったかなぁと。
もし、決断できる政治家が存在したとしても、民衆が支持したかと考えると悲観的にならざるを得ないような。暴動や内乱からヒトラー的な人物に支持が集まるとか、「反米」が旗印となり共産化の流れができてしまうとか(天皇制があるから無理かな?)
あっと、あくまで全部愚見です。
- 【愚考その4】軍部の独走?
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※ 個人的には「皇軍の軍規は厳正」風な(劇場の?)イドラがあったりするのですが、関東軍の独走だけ挙げてみても「どうなってんの?」とか思ってしまいます(※ 5.15や2.26とか考えたらまともな軍隊と呼べないと考えてしまいます...)。その完全無欠のイメージを保つために官僚体質的な(事なかれ主義、うやむや、責任転嫁とか)行動に走っちゃったのかなぁとか考えてみたり。
軍部が政府決定を無視ってのは大問題ですがそれ以外にも、部隊が軍指令を無視、隊長命令を下級兵士が無視、越権行為、政府が軍部の意向を無視、とどれがもっとも問題なのかと考えるとわかりません...
軍の規律については、結果オーライで追認(その判断も?)とか、軍規違反でもウヤムヤで罰なしだったり嘆くのみだったり、帰還兵を自決に追い込んだりと、規律よりも体面重視だったりしたのかなぁと。もちろんどんな組織でも完璧はありえないのですが、これらを一個人の行為として済ませていいものなのか。
- 命令を遂行するのは義務ですから、結果については上官が責任を負うべき
- 上官が責任を取るのが当然としてもその行為が指令だったのかどうかは明らかにしてほしい
- 「すべて上官たる我に責任あり、兵士に罪なし」黙して語らず
- 黙して語らず「おぉこれ幸い」な人もいた?
- 「責任を取れないもの、上官たる資格なし」指導部への批判だったのかな
- 「植民地解放」をホンネとしてがんばったのに「それはタテマエじゃ、ばかもん!」と冷遇されたり
あと、ちょっと悲しいのが英雄視していい人の多くは命令に背いた人だったりすること。(→ 今村さんとか)
軍隊だけでなく指導者の責任ってのは重いのですよねぇ。。
あくまで私見ですが、敗戦についてその要因を探って行くと西南戦争(→ 精神面の支えとしての統帥権)、明治維新(→ 勤皇が旗印)まで行き着いてしまいます。明治維新が間違ってたと言うわけではもちろんなく、その劇的な成功故に欠点の修正に力を注がなかったから、或いは目を向けなかったからではないのかと思ったりしてます。
※ その(表面的な)成功の裏には地方の農民など貧困層(※ 夕飯が麦飯とお新香のみでもあるだけましとか)や占領地民の犠牲がありました。戦後でもそうでしたが、お金持ちの家とそうじゃない家ははっきり2分化されてました(貧富の差が大きいってこと)。それがあまりわからなくなったのはごく最近のことかと。つまりは取るべき手段を間違ったのではないかな。
組織というものは大きくなればなるほど腐敗が生まれることが必定です。自浄作用が働けばいいのですが、うまく動いてる間は良い結果のみ重視し欠点を無視、或いは軽視していまいがちです。さらに、短期的史眼から自己保全を優先し失敗に向き合わず隠蔽してしまい是正の機会を失ってしまうこともあるかと。その腐敗が小さなうちなら是正する手段はあるはずですが、それもかなわない状態になれば「自壊」への道を突き進むのは自然の流れと考えてしまうのであります。
秋山真之 - フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』古人曰く勝て兜の緒を締めよと
組織が大きくなればなるほど自身の欠点や失敗に向き合う真剣さの必要性も増すのではないかなと思います。失敗から得られる教訓こそが成長へのパスポートなのだ...なんちたりして.。
老子 - フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力あり、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富む。
「勝てば官軍」だったアメリカもその後のベトナムでの「大儀なき戦い」で地獄を垣間見ることとなります。(※ そのベトナムには日本軍の残り香も少し...)
日本人なら誰でも知ってる(笑)「平家物語」祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず
終戦(敗戦)
General Works of War History|軍事板常見問題&良レス回収機構【質問】
なぜ自虐史観だの自慢史観だのといったものが飛び交うのですか?【回答】
普通の人々は誰も歴史を知らないし,知らないことを知らないからです.
普通の人々が歴史だと信じ込んでいるものは,歴史によく似た神話に過ぎないのです.
学校では細部まで詳しく教えられませんし,日常でも殆ど必要ではありませんから,大まかな流れしか知らない人が大半ですし,人によってはその大まかな流れさえ知りません.
そういう人たちが「歴史」だと思い込んで吸収する知識は,小説だったり,マンガだったり,映画だったり,週刊誌だったりします.
そこでは創作や思い込みが容易に入り込むので,史実と似ていても史実ではない「神話」を,「歴史」と取り違えて覚えてしまうことになります.
そのような思い込みを育てるのは世相であったり,アジテーションだったりします.
- 日本の降伏
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- ヤルタ会談 - Wikipedia (1945/2)
- 近衛上奏文 - Wikipedia (1945/2/14)
- ポツダム宣言 - Wikipedia (1945/7/26)
- 日本の降伏 - Wikipedia
- 玉音放送 - Wikipedia (1945/8/15)
- 宮城事件 - Wikipedia (1945/8/14)
- 終戦の日 - Wikipedia (1945/8/15)
- 東久邇宮内閣 - Wikipedia (1945/8/17-1945/10/9)
- 東京裁判(極東国際軍事裁判)
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- 日本の戦争犯罪 - Wikipedia
- 極東国際軍事裁判 - Wikipedia
- 広田弘毅 - Wikipedia(外相・第32代首相)
- 大島浩 - Wikipedia(駐ドイツ特命全権大使)
- 東條英機 - Wikipedia(陸相・参謀総長・第40代首相)
- 永野修身 - Wikipedia(元帥海軍大将・海相)
- 木戸幸一 - Wikipedia(内相)
- 東郷茂徳 - Wikipedia(外相)
- 嶋田繁太郎 - Wikipedia(海軍大将・海相)
- 武藤章 - Wikipedia(陸軍中将・参謀長)
- 南京大虐殺 - Wikipedia
- 「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。 - 外務省: 歴史問題Q&A
- 唐生智 - Wikipedia(南京防衛戦の総指揮官)
- 松井石根 - Wikipedia(陸軍大将・上海派遣軍司令官・中支那方面軍司令官)
- 中島今朝吾 - Wikipedia
- 谷寿夫 - Wikipedia(陸軍中将)
- 百人斬り競争 - Wikipedia
- 南京事件FAQ - livedoor Wiki(ウィキ)