織田信長 - 戦国時代めも

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2007.9.1 作成
間違いあると思うのでちょこちょこ修正する予定(汗)。

時代劇のお供に(笑)

史実として正確じゃない点もあると思いますが、諸説ありありということでそこはそれ...

後世の歴史家や小説・映画などによって美化・脚色されてる逸話なんかも多々あると思うので、正確な評価は難しいかもしれません。でも、その美化された逸話については色々「考えさせられる」という面白さがあるかなと思います。

(ボソッと)小説なんかだと極悪すぎ、漫画だとかっこよすぎ、美化しすぎ!だったりしますよねぇ。(笑)

戦国時代 3

戦国大名 4

駿河 - 今川氏 - Wikipedia

1560年6月12日桶狭間の戦で今川義元討死。その後衰退。

三河 - 松平氏 - Wikipedia

桶狭間の戦い後に今川氏より独立し信長と同盟を結ぶ(清洲同盟)。対等性には疑問があるがこの同盟は破られることがなかった。

美濃 - 美濃斎藤氏 - Wikipedia

1567年美濃三人衆が龍興から離反し、龍興は美濃から追放され滅亡。

北近江 - 浅井氏 - Wikipedia

長政の正室は信長の同母妹の市。同盟を結ぶが朝倉氏に義理立てしこれを破棄。1573年朝倉氏とともに滅亡。

南近江 - 六角氏 - Wikipedia

1568年足利義昭を奉じ上洛した織田軍に敗北し没落。

越前 - 朝倉氏 - Wikipedia
伊勢 - 北畠家 - Wikipedia

1570年降伏し没落。信長の家臣となる。

松永久秀 / 三好三人衆

変わり身が忙しい。

河内 - 三好義継 - Wikipedia(三好氏本家当主)

1568年信長の上洛時に恭順。後に松永久秀と結び反逆。1573年11月佐久間信盛率いる織田軍に若江城を攻められ落城。

三好三人衆 - Wikipedia

1568年信長の上洛に抵抗する。三好家内紛の悪影響もあり離合集散を繰り返す。1573年足利義昭を擁し三好義継・松永久秀らとともに信長包囲網の一角として決起するが敗退し没落。

大和 - 松永氏 - Wikipedia

三好三人衆と組み足利義輝を暗殺(永禄の変)し畿内を掌握するが、義昭を奉じ上洛した信長に降伏。その後信長に対し二度反逆。最期は信貴山城で爆死。

甲斐・信濃 - 武田氏 - Wikipedia
越後 - 上杉氏 - Wikipedia
  • 長尾 景虎(上杉謙信 - Wikipedia
  • 「越後の虎」「越後の龍」の異名をとり、武田晴信と並び戦国時代を代表する武将の一人。天才的な戦術家と評される。信長との同盟を破棄し本願寺顕如と結託し織田包囲網を築くが、1578年4月19日遠征準備中に急死(上洛が目的だったとの説あり)。
安芸 - 毛利氏 - Wikipedia

本願寺顕如と結託して信長包囲網を築く。村上水軍を中心とした毛利軍は織田水軍に圧勝し本願寺に兵糧援助するが、後に九鬼嘉隆の鉄甲船に敗れる。本能寺の変勃発時は羽柴軍と対峙。

織田信長 5

単純に「出る杭」扱いだったのか、「あんなうつけ者」という先入観から敵方は油断したのか、はたまた、それだけの「脅威」的存在、既存の秩序にはまらない天才だったのか。はてさて。

武将

木下藤吉郎 / 羽柴秀吉(豊臣秀吉 - Wikipedia

(後世の作り話とも思われるが)、戦術家としての有能さを示す風説多し。信長死後、光秀を倒し天下統一。

明智光秀 - Wikipedia

足利義昭の命を受け、信長に上洛を要請し知遇を得る。本能寺の変で謀反者として有名だが、数々の戦功を挙げ信長に最も信頼された部下の一人であったと思われる。

謀反

年表 6

桶狭間の戦い - Wikipedia - 1560年6月12日

絶対優勢と思われていた今川軍本陣を急襲。今川義元を討ち取る。

清洲同盟 - Wikipedia - 1562年

元今川方の松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶ。東方(武田氏)に対する防波堤となる。

永禄の変 - Wikipedia - 1565年6月17日

三好三人衆と松永久秀ら足利義栄を将軍に擁立する狙いで、足利義輝暗殺。覚慶(足利義昭)は朝倉氏の下へ。

墨俣城 - Wikipedia - 1566年

美濃の斎藤龍興・稲葉山城を攻略するための拠点とすべく、信長が木下藤吉郎に命じ築城(一夜にして築城した墨俣一夜城“伝説”が有名)。

足利義昭を奉戴し上洛を開始 - 1568年9月

朝倉家の食客となっていた足利義昭を奉じ上洛。

金ヶ崎の戦い - Wikipedia - 1570年4月20日

越前国の朝倉義景領に侵攻するが、義弟である北近江国の浅井長政の裏切りによって挟み撃ち状態となる。朽木元綱の協力、松永久秀、殿軍での羽柴秀吉などの活躍で決死の退却。「金ヶ崎の退き口」「朽木越え」。

姉川の戦い - Wikipedia - 1570年8月9日

浅井・朝倉同盟軍との戦い。敗走した浅井朝倉連合軍は比叡山や一向宗と結び、後の比叡山侵攻の遠因となる。

比叡山延暦寺を焼き討ち - 1571年9月

再三の武装解除要求を拒否した延暦寺に侵攻。焼き討ち。

三方ヶ原の戦い - Wikipedia - 1573年1月25日

上洛を目指す武田軍に対し、徳川軍が籠城策を翻し出撃。しかし万全の構えの武田軍に惨敗。この後武田信玄が発病したため武田軍は撤退。信玄は死亡。

足利義昭追放 - 1573年7月

足利義昭が三好義継・三好三人衆・松永久秀と結び織田氏に対し挙兵。信長は京都を焼き払い、義昭を追放。

一乗谷城の戦い - Wikipedia - 1573年9月

朝倉氏壊滅戦。浅井氏滅亡。

蘭奢待切り取りの勅許 - 1574年3月28日

勅許を得て東大寺の蘭奢待を切り取り。朝廷からこの勅許が下りたことは信長の権威を他に示すこととなった。

長篠の戦い - Wikipedia - 1575年6月29日

武田勝頼、織田軍の足軽鉄砲隊に惨敗(※諸説あり)。この後武田勢力は衰退していく。

安土城 - Wikipedia - 1576年築城

当時としては日本一の豪華絢爛を誇った。

手取川の戦い - Wikipedia - 1577年11月3日

七尾城攻防戦。加賀国の手取川において上杉謙信軍が織田軍に大勝。

長尾景虎(上杉謙信)死去 - 1578年4月19日

遠征の準備中に春日山城にて急死。

上月城の戦い - Wikipedia - 1578年4月18日から同年7月3日

播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久(織田側)との戦い。羽柴軍が支援するが落城。

高天神城の戦い - Wikipedia - 1574年5月/1581年

1574年5月武田軍の猛攻を受け落城。1581年兵糧攻めで奪回。

第一次天正伊賀の乱 - 1579年

信雄率いる織田軍が伊賀に侵攻するが奇襲を受け敗北。

第二次天正伊賀の乱 - 1581年

信雄再度大群を率い伊賀へ侵攻。大勝する。

武田征伐 - Wikipedia - 1582年

弱体化した武田氏の領地、甲斐・信濃での掃討戦。武田勝頼自刃。

備中高松城の戦い - Wikipedia - 1582年

羽柴秀吉による毛利家の備中高松城(城主:清水宗治)への攻撃。この途中で本能寺の変が起こる。

本能寺の変 - Wikipedia - 1582年6月21日

明智光秀が謀反。京都本能寺を攻める。信長自決。謀反の原因・目的について諸説入り乱れて日本史上最大の謎とされる。

石山本願寺 7

織田側は根切(皆殺し)・焼き討ちなんてエゲツないことしたわけですが、信徒すべてに玉砕戦法を強いる宗教指導者もどうなのって思いますね。やっぱり政教分離は必要ですね。

足利義昭、毛利、上杉、武田、三好三人衆などと組み、織田包囲網を敷くが、謙信、信玄の死去や寝返り、信徒内部の抗争などもあり織田軍の徹底攻勢の前に打倒は叶わず。一門は石山本願寺より退去。

老若男女すべての信徒に戦闘を強制した本願寺勢力に対し、信長軍は根切(皆殺し)・焼き討ちで応戦。凄惨な戦いとなる。

石山本願寺降伏後は、宗教勢力の非武装化・政教分離が進むこととなる。

石山合戦 - Wikipedia

1570年ごろから1580年

長島一向一揆 - Wikipedia

1570年ごろから1574年。本願寺門徒、雑賀衆らに苦戦。

越前一向一揆 - Wikipedia

1574年-1575年

第一次木津川口の戦い - Wikipedia

1576年。本願寺に兵糧援助しようとする毛利水軍に織田水軍が惨敗。

第二次木津川口の戦い - Wikipedia

1578年(天正6年)11月6日。九鬼嘉隆、新型鉄甲船で毛利水軍を撃破。支援を断たれた本願寺勢力は抗戦力を失っていく。

反織田勢力 8

「反信長」という目的は同じでも、実際には他力本願的で全く一枚岩とはなってなかったような...

信長包囲網 - Wikipedia

本願寺顕如、足利義昭が中心。毛利、上杉、武田、三好三人衆など。足利義昭は何度か挙兵するが織田軍の強大化・徹底戦略の前に、謙信・信玄の死去もあり次第に弱体化していく。

延暦寺 - Wikipedia

信長と対立した足利義昭側に付き、浅井・朝倉連合軍をかくまう。信長の再三の武装解除・降伏要求を拒否。1571年9月織田軍の侵攻により焼失。

Written by yassy